プロ倫、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905)を昔ならったが、宗教改革のカルヴァンの予定説が資本主義を生んだの話で、勤勉に天職に励むことが神の御心であり、善なのだという価値規範の転換があったというが、そのリクツがどうにも腑に落ちないでいた。

「最初から利潤の追求を目的とするのではなく、行動的禁欲をもって天職に勤勉に励み、その「結果として」利潤を得るのであれば、その利潤は、安くて良質な商品やサービスを人々に提供したという、「隣人愛」の実践の結果であり、その労働が神の御心に適っている証である」みたいな話は、なんか胡散臭い。人々を働かせたいがための屁理屈ではないか、ご都合主義ではないかと・・・。

実際、カルヴァン以前は、

「それまでの人類の労働の在り方は、南欧のカトリック圏(非プロテスタント圏)に見られるように、日が昇ると働き始め、仲間とおしゃべりなどをしながら適当に働き、昼には長い昼食時間をとり、午後には昼寝や間食の時間をとり(シエスタ)、日が沈むと仕事を終えるというような、実質的な労働時間は短く、おおらかで人間的ではあるが生産性の低いものであった。」

だったらしく、それでいいではないかと(でも、南欧の人がテキトーなのは、カトリックだったとかではなく、単純に、イタリア人がいい加減だから、とか人種の話ではないのか? いくらナチスのアンチ人種政策として歴史の理由づけが必要だったとしても、たかだか宗教くらいで、エートス(行動様式)とか国民性がかわってしまうものなのか?)。

・・・・そんな風にずっと疑問に思っていたのだったが、以下のwikipediaの解説は、なるほどと思う。

カルヴァンの予定説では、救済される人間は予め決定されており、人間の意志や努力、善行の有無などで、その決定を変更することはできないし(つまり善人でも救われていないかもしれないし、悪人でも救われているかもしれない)、全知全能なる神の意思は人間には不可知なので、自分が救済されている選ばれた人間かどうか、予め知ることもできない

しかし善行を働いても救われるわけではなく、予め救われているかどうか知ることもできず、もし選ばれていなかったら消滅し、もう二度と救済されない、という予定説の恐るべき論理は、人間に激しい精神的緊張を強い、そこから逃れるために、「神によって救われている人間ならば(因)、神の御心に適うことを行うはずだ(果)」という、因と果が逆転した論理を生み出し、一切の欲望や贅沢や浪費を禁じ、そちらへ向かうはずだった人生のエネルギーの全てを、信仰と労働(神が定めた職業、召命、天職、ベルーフ)のみに集中するという、禁欲的労働(世俗内禁欲、行動的禁欲、アクティブ・アスケーゼ)という精神・行動様式(エートス)を生み出したのである。

「「神によって救われている人間ならば(因)、神の御心に適うことを行うはずだ(果)」という、因と果が逆転した論理」、つまり、自分が救われるかなんていうのは直接認知できないから、せめて間接的に確信を得たいという訳だ。これって一種の偶像崇拝ぽい胡散くささがあるが、人間って風が吹けば吹き飛んでしまうくらい心もとない弱い存在なので、それくらい許してね・・・そんな所であろうか。

以上、「プロ倫」のさわりのリクツは納得がいったのだが、池田信夫のブログによれば、「『プロ倫』の物語はよくできているが、今では文学的価値しかない」らしい(先日読んだ「空気の構造」にもその記述があった)。

http://www.evernote.com/shard/s73/sh/73f7d39b-feef-45d7-bcfd-266c53977ac4/f31536bee25797ff4aa4e35af146a5df

だがカルヴァンがこのような規律社会をジュネーブに建設し、異端者を暴力で排除してドイツやオランダにプロテスタントを増やし、宗教戦争に生き残ったことによって宗教改革は成就したのだ。ロシア革命でいえば、ルターはケレンスキーのようなもので、カルヴァンというレーニンがいなければ、ヨーロッパ人の生活を変える「革命」は起こらなかっただろう。

資本主義をヨーロッパに生んだ原動力は予定説の教義ではなく、このように強い規律で結ばれ、自分たちと信仰を共有しない民族を人間とも思わないカルヴァン的な不寛容だった。
(中略)
いつの時代にも、カステリオン(あるいはその師であるエラスムス)のように権力者の不寛容を批判し、多くの人々の自由を認め、社会を民主的に運営せよと論じる知識人はいるが、彼らが世の中を動かした試しはない。むしろワンマン社長が暴力的な経営をする企業が高い業績を上げる傾向が世界的に強まっている。

確かにそう思う。

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