いつかブレークするだろうと内心注目していたが、ようやく・・・。
仁美さんも、最近ブレークしてるみたいだが、かれこれ5年前の自分の読書メモ。
『タイトルからすると、音楽ミステリーあるいは、クラシックエッセー風だが、本書は聴覚を失った作曲家の魂の軌跡である。一読、その運命の過酷さ、宿命の業深さに衝撃をうけた(多分ここ数年で一番衝撃は強いかも知れない)。独学でクラシック理論を学び、原因不明の頭痛、聴覚障害と闘い、時には運命(神)を呪い、自殺をこころみ、それでも、神の存在を見出し(信じ、ではない!)、自己の全存在をかけて創作の筆を握り続ける・・・。なんと驚くべき精神力、宿命に対する謙虚さなのだろうか。思うに、きっと著者は人生の学びの最終課程にある。過酷な運命は、それに耐えうる精神を持つものに与えられるとするなら、間違えなく既に著者は、今生にいたるまで既に十二分過ぎるほど修行を積んで生まれてきている。にもかかわらず、あえて、この世に生をうけた意味は、どこか「卒業論文」にも似た最後の試練を自ら率先してうけにきた、そんな風にしか思えないほど、壮絶な生き様の記録である。人は極限まで追い詰められた究極においては、もはや神にすがるではなく、その存在を認めるしか仕様がないのだ、という「悟り」が、いかようにして人の心に芽生えるのかを理解するために、どんな宗教書も到底及ばない真実の証明が、本書のなかに確かに記述されているように自分には思える。Thu, 29 May 2008 21:22:01』
柴田南雄先生が、かれこれ20年前からいっていたように、ようやく、「ロマン主義の復活」が世の中一般に体感できるくらいまで、時代が追いついてきた・・・という事なんでしょう。以下も最近の新聞記事だが、
「同じ13年の作品、ストラヴィンスキーの《春の祭典》も、初演時は、ウェーベルンやシェーンベルクの作品同様、無理解による大騒動が起きたという。しかし、難度の高い変拍子の連続にもかかわらず、今日、アマチュアオーケストラもしばしばとりあげる人気作だ。その理由は、誰もが体感できる力づよい拍動が喚起する原始性や儀式性など、人間が古くから培ってきた様々な知識や体験が、私たちの本能をつき動かすからだと思う。「難解な現代音楽」ながら、過去の記憶や身体性と分断されていない。」 ロマン主義・・・まあ、それだけ、世の中あれてきてるって事なのかも・・・。要は、戦争前夜って事なんでしょう。「本能を突き動かす」とか、理性より感覚重視になると、次にくるのはナショナリズムの高揚とか、とかく最近昭和初期に似てますね・・・マーラーとか決して嫌いではないので、ロマン主義の復古はオッケーなのだが、翻っていうと、新古典主義ってのは極めてその点清潔感あふれてたリアリズムであり、そのまぎゃくのロマン主義ってのは、本来その語感からくるロマンティックさに酔っぱらってる場合ではなく、もはや現実逃避せざる得ないって事でしょう・・・やはり日常世界がそれだけ不安、不確定要素にみちあふれ、とかく荒れてる(これから荒れる)って事です。
いずれせよ、これからどんどん「理性より感覚重視の女性原理」が優位になるはずです・・・マーラーの千人の「永遠に女性的なるものがわれらを高みへと引き上げ、昇らせてゆく」の世界観(少子化なんて、だから土台当たり前なのだ)。その次にくるのは、カタストロフィー。いったんみんな死んで(受験は大変だったが、いずれ復活する徴兵制からは逃げドクできそうな世代でラッキーなことだ)、再度、三次元の世界に「建築」していく新古典主義の男性社会がくる。あとそれまでにははやくて30年くらいかかるかな。
↓ フォードシステムの画一的機械主義と12音音楽と結び付けて相対化している視点って、経営学の基礎理論と親和性が高いかも・・・経済新聞なんで、そこら辺意識して書いてる?
2013/8/1付日経
現代音楽を聴くヒント(1)音の上に音を作らず
物語性や感情から「自立」 望月京
100年前のバレエ音楽「春の祭典」初演は大騒動となったが、今では人気作品に(メトロポリタンオペラ、2003年、AP/アフロ)
夏の音楽祭がたけなわとなり、現代音楽に接する機会も増える。現代曲は難解だと敬遠する聴き手も少なくないが、勘所を押さえることで魅力がみいだせるはず。作曲家の望月京さんがここ100年間の傑作を聴きこなすポイントを解説する。
さまざまな感情や記憶を喚起させるメロディー、ハーモニー、リズム……。なじみ深い音楽の諸要素は、数百年ものクラシック音楽の歴史の中で確立された。それはジャズやロック、ポップスといったポピュラー音楽にも受け継がれる、人類の「偉大な共有資産」だ。
それを革新しようという試みである「現代音楽」は、当然、多くの聴き手の反発を招いた。だが、新たなものへの興味や探求ゆえに、人間の意識や可能性が変革・拡大されてきたのも事実だ。20世紀、さまざまな技術革新が私たちにもたらした「豊かな暮らし」の変遷はそれを如実に物語る。
音の機会均等に
1913年、アメリカのフォード社が、生産工程にベルトコンベヤーを取り入れ、車の大量生産を実現したのは象徴的だ。分業制と機械による自動組み立て作業が可能にした大量生産は、国民の多くが中流意識を抱くような消費社会や経済的発展を導いた。
現代音楽の創始者の一人、アルノルト・シェーンベルク(Ullstein bild/アフロ)
こうした繁栄の鍵となる「分業制」、すなわち全体の分断は芸術にも及ぶ。それまで、宗教や日常生活、個人の感情などと結びついて成立していた音楽が、用途や目的、感情、慣習などから切り離された「自立」の道を模索しはじめた。シェーンベルクとその弟子のベルク、ウェーベルンら「新ウィーン楽派」が開拓した、「12音技法」が代表例として挙げられよう。
1オクターブ(例えばドからその上のドまで)を、ピアノの鍵盤で数えると、白鍵、黒鍵合わせて12個の音がある。この12個をどのような音程(音と音の間の距離)で組み合わせるかによって、音楽における、楽しげ、悲しげといった雰囲気が決まる。同時に鳴らせば和音、ばらばらに鳴らせばメロディーになるが、その際、出現する音の頻度にはばらつきがあることが多い。その偏りがその曲の調性や雰囲気を特徴づける。
「12音技法」は、12の音が全部出揃(でそろ)うまでは、1度使った音を繰り返さないことで、12音間のそうした出現頻度のばらつきを是正した。いわば「機会均等法」を適用した、「音の上に音を作らず」の実践である。
さらに後年、フランスのブーレーズなどによって、リズム、強弱、音色など、その他の音楽の構成要素も分断されていく。
本能突き動かす
こうした技法によって、聴き手がそれまでよりどころとしてきた、メロディー、和声、調性、拍動などの「秩序」は解体され、物語性や感情とも切り離された。かくて、現代音楽は、多くの人にとって、「難解」との烙印(らくいん)を押されることになったのだ。
入門者には、ウェーベルンの《オーケストラのための5つの小品》(1913)をお薦めしたい。12音技法としては未完成だが、全曲通して5分未満。ほぼ同時期、同じウィーンで活躍したマーラーとは対極の音楽世界を享受できよう。
同じ13年の作品、ストラヴィンスキーの《春の祭典》も、初演時は、ウェーベルンやシェーンベルクの作品同様、無理解による大騒動が起きたという。しかし、難度の高い変拍子の連続にもかかわらず、今日、アマチュアオーケストラもしばしばとりあげる人気作だ。その理由は、誰もが体感できる力づよい拍動が喚起する原始性や儀式性など、人間が古くから培ってきた様々な知識や体験が、私たちの本能をつき動かすからだと思う。「難解な現代音楽」ながら、過去の記憶や身体性と分断されていない。
無味乾燥と思われがちな現代音楽だが、「機会均等」や「平等主義」と同様、多種多様な表現の共存という、20世紀以降の社会の志向も反映しているのだ。時代や社会背景も鑑みて聴けば、現代音楽の面白味は倍増するはずだ。